« 3年さ ヨロシク! | トップページ | オープン戦初戦は勝利 »

2008/02/29

消えゆく闘将

ドラゴンズファンになった時、最初に憧れたのが江藤慎一さんでした。弟の省三氏も代打の切り札としてドラゴンズ活躍されましたが、一緒にプレーをしていたという記憶がありません。
江藤慎一さんは「闘将」というニックネームが本当に似合うスラッガーでした。(お酒も好きだったみたいです)
心からご冥福をお祈りします。
今夜はお休みの予定でしたが、江藤慎一さんに捧げる回文です。
「よく行く寄るよ繁華街 江藤と弟 映画館は夜よく行くよ」(よくいくよるよ はんかがい えとうとおとうと えいがかんは よる よくいくよ)「酔いたい時に 兄貴といたいよ」合掌
Etou

<本日のサンスポより>
「闘将」が逝った。中日、ロッテなどで強打者として活躍し、史上初めてセ、パ両リーグで首位打者のタイトルを獲得した江藤慎一(えとう・しんいち)氏が28日午後3時38分、肝臓がんのため東京都内の病院で死去した。70歳。熊本県出身。59年、中日にテスト入団し、気迫あふれるプレーで通算2057安打をマーク。75年には太平洋(現西武)で兼任監督も務めた。
ほとばしる気迫で多くのファンを魅了した「闘将」も、病には勝てなかった。昭和の強打者がまた1人、天国へと旅立った。
巨人、中日で活躍した弟の省三氏(65)によれば、江藤氏は03年に2度倒れて以来、都内の病院で療養生活を送っていた。現役時代、打席に立つと酒のにおいがしたというほど、浴びるように飲んだ酒の影響か、がんが肝臓をむしばんでいた。
常に全力プレーだった。1959(昭和34)年、社会人の日鉄二瀬から中日に入団。毎晩のように飲み明かしながら、「活躍しなかったら何を言われるか分からない」と練習から手を抜かず、豪快に打ちまくった。

|

« 3年さ ヨロシク! | トップページ | オープン戦初戦は勝利 »

コメント

寂しいですね!
元祖エイトマンに合掌!!
中日の背番号8は4番の証でしたね。
これからは、頑張れ、平田!!!

投稿: 仙 | 2008/02/29 23:02

残念ながら私、江藤慎一選手の
ドラゴンズでの全盛期は
ほとんど記憶にないんです。
物凄い人気だったそうで、まさに
ミスター・ドラゴンズだったんですね。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。

ちなみに、私が生まれて初めて
中日球場で観た試合は、弟の
江藤省三選手のサヨナラ押し出しでした。

投稿: ドライチ | 2008/03/01 09:21

http://www.dragons-otaku.com/

江藤慎一は1959~69年在籍。水原監督との確執で中日を去る。

しかし西沢道夫引退と同時に入団したとは運命ですよ。

中日に在籍した兄弟選手としても有名です。

野口兄弟
近藤兄弟
江藤兄弟

中日監督がやりたい。1軍が無理なら2軍監督でも…スラッガー江藤の夢を中日ファンは見たかった。

堂上兄弟も慎一さんに続きなさい。

投稿: sadakun_d | 2008/03/01 09:52

仙さん
ドラゴンズのエイトマンっていう表現は
懐かしいですね。
あの頃はホント4番の証でした。
ガッツ溢れるプレーの元祖の選手でしたが、
背番号8の栄光を平田が引き継いでくれると
思います。

ドライチさん
江藤選手はONに対抗できる唯一の選手だった
ような記憶があります。
史上初のセパ両リーグで首位打者を獲得しましたが、
張本のセリーグ首位打者を阻んだ谷沢の神懸り
打法もなつかしい思い出です。
ドラゴンズ対ジャイアンツの因縁はいろいろな
ところで出てきますね。

sadakun_dさん
コメントありがとうございます。
ドラゴンズの歴史の中でもトップクラスの
選手だったと思います。
晩年は、古巣へ戻ることがなくて残念でしたが、
江藤さんの教え子が野球界で活躍していると
思うとそれだけが救いですね。
堂上兄弟には、偉大な先輩を超える活躍を期待
したいものです。


投稿: ギンタロウ | 2008/03/01 20:02

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 消えゆく闘将:

« 3年さ ヨロシク! | トップページ | オープン戦初戦は勝利 »